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サンタ・クロースの不思議 001

e0093537_231117.jpg 知っているのは 子どもだけかも

赤い三角帽からカールした白髪が夏のにゅうどう雲のようにもくもくとはみ出し、白くて太い眉毛の下に、ちょっと目尻の下がった大きくて優しい眼。丸い大きな鼻の下の真っ白くふかふかした綿ひげのジャングルから、肉厚だが決して大きくはないつややかで赤い唇がのぞいている。黒いブーツは、足の形をそのままに太く、真っ赤なパンツは、ひざ小僧の位置がわからないくらいにゆったりとし、でっぷりとしたお腹にまかれた黒の厚いベルトには、黄金色に輝く大きなバックルがついている。たっぷりとした赤い上着のエリとソデとスソには、白くてふわふわとした毛がついていて、銀色の丸いボタンが並んでいる。そして、大きな白い袋を乗せた、木製の頑丈なソリと、首に金色の鈴をつけたトナカイたち。
そう、これが、誰もが知っている、私たちのサンタ・クロースの姿である。
不思議なことに、会ったことも見たこともないサンタ・クロースなのに、ほとんどの人がその姿を説明できるし、絵にだって描ける。
遇ったことも見たこともないのにみんなが知っているものは、ほかにもある。エンゼルや妖精。幽霊や宇宙人。鬼や天狗。人魚や古代生物(爬虫類・恐竜・怪獣)。クジラやタコやクラゲだって描けるのだ。クジラやタコやクラゲを見た人は、もちろんいるだろう。不運にもこれまで見る機会がなかったとしても、見たいとなれば何とかなる。しかし、エンゼルや妖精や恐竜や宇宙人となると、そうはいかない。どこへ行ったら会えるのか、かいもくわからないのだ。もちろん、サンタ・クロースも同様である。
ほとんどの人が、目に見えないものを信じようとはしない。それなのに、だれもが三角帽子の小人や人魚やサンタ・クロースを自信たっぷりに描いてみせられるのは、いったいどういうことなのだろう?
現実に会うことができなくても、古代生物のように、化石が掘り出され、生きていたことが確認されて、科学的にその姿を再現できるものもある。しかし、妖精たちには、そんな科学的な根拠もないのだ。少なくとも、写真でもあったらと思うのだが、残念なことに、それもない。もっとも、写真の発明は、1822年(*)なのだからしかたがない。
古代(ずっと昔の大昔)の人間は、見たことや起きたことを言葉(話)で伝えるしかなかった。やがて、絵や文字にして、いろいろな出来事を今の私たちに残してくれている。しかし、絵が描けたり文字が書けたのは、ほんのわずかな人にかぎられていたので、現代に残っているものもそう多くはない。むしろ、ほんのわずかしかないといえるのだ。


サンタ・クロースは、ミッキー・マウスやドラえもんのように、実際には存在しない(または、存在していたことのない)けれど、みんなのアイドルになったというたぐいのものではない。つまり、物語のために作られた主人公ではなく、「創造されたキャラクター」ではないのだ。じゃあ、やっぱり、実在の人物(人の形ではあるが、人間ではないかもしれないから、「人物」と決めつけてよいものか悩むところだ)かというと、「そうだ!」とも「ちがう!」とも言えないのだ。
「サンタ・クロースは、いたのか?」
「サンタ・クロースは、いるのか?」
この質問にはっきり答えられる人物は、この地球上に一人もいないだろう。何故ならば、サンタ・クロースがいたという証拠になるもののそのすべてが、人の話だったり、文章だったり、絵にしか残されていないからである。
こんなに科学の進んだ現代でも、サンタ・クロースの姿を写真やビデオやレーダーに映し出すことができないのだ。もし、「映っていた」とその映像を見せられたとしても、撮影技術の進歩やコンピュータで簡単に写真修正できることを知っている私たちは、それをそのまま素直に信じることができなくなってしまっている。科学の発達は、私たちを疑い深くしてしまった。だってそうだろう、宇宙人やUFOが「存在する」か「しない」かの論争を考えればよく分かるはずだ。
証拠も証拠にならないのだから、サンタ・クロースの存在を確かめるには、彼に、姿を現してもらうしかない。
もし実際に現れたとしても、「ロボットだ!」「クローン人間だ!」と大人たちは、目の前のサンタ・クロースをも疑ってしまうかもしれない。ひょっとしたら、大人たちは、テレビ局を忙しく引っ張りまわした後、科学的な根拠を捜し求めて、大切なサンタ・クロースを解剖してしまうかもしれない。
「ああ、どうしよう。なんてことだ」考えるだけで、ぞっとする。
もっとも、本当のサンタ・クロースだったら、自身の存在を知らせるために、ニッコリ、だまって、自分から進んで手術台に横たわるかもしれない。
子どもたちに、相談もなく………。

つまり、サンタ・クロースの存在を証明することは出来ないのだ。そして同時に確かな事は、「存在しない」ということも証明できないということなのだ。だから、「いる」と信じるか、「いない」と信じるか、それは、人それぞれの心にまかされている。
「いない」と信じる人に、無理に信じさせることでもないし、ましてや「いる」と信じている人に「あんたって、アホね」ということでもない。


知っての通り、サンタ・クロースは、基本的に、子どもたちのところに出現する。したがって、世界には、幸運にもサンタ・クロースに会うことのできた子どもたちが、数多くいたに違いない。しかし、残念なことに、その記録がほとんどないのだ。なぜなら、大人たちは、子どもたちの話など記録するつもりなどなかったからなのだ。「サンタ・クロースに遇ったんだ~!」と子どもが興奮して叫んだとしても、大人たちは、「そう、よかったわねえ」とニッコリして終わりなのだ。子どもの話を信じる気持ちは全くない。それは、子どもにもはっきり解る。それだって、10歳をこえる頃になって「サンタ・クロースに遇った」なんて言おうものなら大変だ。まるでいけないことでもしたかのようにあつかわれてしまう。
大人たちが、子どもの話を信じようとしないのは、今に始まったことではない。昔からそうなのだ。つまり、大人たちにとって子どもたちは、みんなウソつきなのだ。「こうだったらいいな」と思ったことや、夢と現実の世界の区別がはっきりしない話や、想像と現実が混ざった話など、大人たちには、そのすべてが「ウソ」なのだ。
大人たちだって、かつては子どもだったはずなのに ・・・・・・・。


世界には、いろいろな妖精の話、小人の話、悪魔の話、神々の話、人々の話、そして動物たちがくりひろげるさまざまな物語がいっぱいある。子どもたちが、それらの物語に夢中になれるのは、ほとんどの子どもたちが、物語にあるような体験をしているからに違いない。
木のいっぱい生えている林の中で、小さく光るきれいな明かりが飛ぶのを見たり、地平線の上を真っ赤な夕日がゴロリンゴロリンと転がるのを見つけたり………子どもたちの目には、大人たちでは見ることのできない世界が映っているのだ。道端の小さな花やアリンコたちと話すことだってできる。
大人たちは、ディズニーランドへ行って、ミッキーマウスに逢うことはできても、森の中の日だまりで、急に踊りだす子どもの相手が、妖精や小人や光のツブツブや、くるくる回る風であることを知ることができないのだ。だから、大人たちは、子どもが「小人と遇った」と言っても、素直に信じることなどできるはずもないのだ。
信じてもらえない子どもたちは、大人たちにだんだん無口になって、やがては、大人たちの信じることしか口にしなくなってしまうのだ。(とても残念なことだが…・・・)
どうやら、そうなることが、「大人になる」とか「成長する」ということらしい。

(*) 写真の発明は1822年(フランス)ですが、1枚の写真を撮るのに約10時間もかかりました。
   動くものが撮れるようになったのは早くとも1877年以降のことです。
   私たちが知っているシャッターを押してすぐ写る写真になったのは、1900年。
   持ち歩ける小型カメラが製造されたのは、1925年(ドイツのライカ社)のこと。
   また、日本で小型カメラが本格的に生産されるようになったのは、1960年になってからのことです。


                             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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by jam909jam | 2009-12-22 23:11 | ★サンタ・クロース
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